うっそうと杉の老木に覆われた山道は、陽が昇ったあとも夕暮れのように昏い。鳥のさえずりも獣のうごめく気配もない
大島宇吉は、ふとかたわらの岩の割れ目からきらきら流れ落ちる一筋の水を見つけると、小躍りせんばかりに近寄り、腰に下げた竹筒に受けて咽喉を潤した。二刻(四時間)ほど前に粥の朝餉を口にしただけの空きっ腹に氷のように冷たい水がしみわたり、ぶるぶるっとからだが慄え、たちまち全身に精気が蘇る思いがした。
高野山の奥深い霊場、眞別所で百ヵ日にわたるきびしい修法を終え、黄道吉日のきょうの昧爽ちかくに出立してから、すでに半日あまり。ひたすら京都をめざして山を越え、川を渡ったが、道中行き交う人っ子ひとりなく、いっこうにそれらしい人里が現れぬ。
(はて、どこで道をたがえたか)
宇吉は、その場にへたりこんだ。あたりは漆黒の闇に覆われ始め、身を斬る夜気がしのび寄ってくる。修法中に凍傷を負って、ふくれ上がった足の指先が草鞋の緒に擦れて出血し、針の束で刺されたような疼痛が襲う。空腹と極度の疲労とから、もう這うこともできぬ。
ここで野宿を……。一瞬そんな思いが頭をよぎる。だが、壮年のころから狩りや柔剣道で鍛え上げた五尺七寸(一七二a)二十余貫(七五余`)を越す偉丈夫も、百ヵ日に及ぶ難行で見るかげもなく痩せ衰えてしまった今、こんな山中で眠るのは自死するにひとしい。
郷里の尾張小幡村には、いちずに自分の帰宅を待ちわびる妻と三人の愛児がいる。悲願とする自由民権、国会開設の運動も、いまだかんばしい成果を得られず、地租改正で苦しむ農民たちの救済も急務だ。それやこれらに思いをめぐらせると、なんとしても生きのびねばならない。
「南無、豊川叱枳尼眞天。オンシラバッタニリウンソワカ……」
宇吉は、よろめきながら起ち上がり、思わず口をついて出た御眞言を一心に唱えつつ再び暗闇の中を歩み始めた。この御眞言は、二十一回唱えると功徳を得られるといい、宇吉が子どもころから苦境に立つたび繰り返した呪文である。
と――。四半刻(三十分)ほど経ったころ、杉の木立の間からぼんやりと、人家の灯らしい明かりが目に飛び込んだ。狐火か、目の錯覚か。いや、あれは人間のともす灯にちがいない。
(おお、これぞ豊川稲荷尊天のお加護)
宇吉は、道端にころがる枯れ枝を杖にし、重い足を引きずりながら懸命に坂道を下った。
それは、爺婆の棲む一軒の農家であった。
「こんな冬の夜更けに、どなたじゃ」
いぶかる老夫婦に事情を話すと、「そうかそうか、高野山の眞別所からとな……」爺が閂をはずし、快く宇吉を囲炉裏端まで招じ入れてくれた。そして婆が「さぞ、からだが凍えておろう。残りものじゃがのう」と、さっそく豚汁を温めて、ふるまってくれた。身も心も温まるとは、まさにこのこと。宇吉は立ち上る湯気に頬をほてらしながら、夢中で汁をすすった。
夫婦は、翌日出立するという宇吉に、さらに二、三日休息をとって行くよう勧めてくれた。が、宇吉は丁重に辞退し、教えられた道を一路、京都御室の仁和寺へ向かって、ひたすら急いだ。
仁和寺の門跡栄厳大僧正は、憔悴していながらも迷いの翳がみじんもなくなり、双眸に毅然とした光を取り戻した宇吉の姿をひと目見て、ほっとしながらいった。
「宇吉さん。百ヵ日の行、無事勤められたようじゃの」
大僧正は、民権運動のしがらみから心を乱し、救済を求めて訪れた宇吉に「高野山の眞別所で『虚空蔵菩薩求聞持法』の行を修め、煩悩妄想から解脱をなされ」と勧めてくれた恩師である。
「おかげさまで、安心立命の境地とまではいかずとも、心の糧を得ることができました」
「ふうむ。それは結構。したがのう。身を斬る寒風の中、断崖に面したほの暗い小部屋に坐り、一日二万遍の真言を誦する修行は、生半可ではできぬ。見れば足や手が凍傷にかかられたようす。ほんによう頑張られた」
「体重が三貫(一一・二五キロ)も減りました」
「そうであろう、そうであろう。弘法大師も修得された荒行に、みごと耐えられた貴殿は、いわばもう怖いものなしじゃ。あの事件のほとぼりも冷めて、無実も晴れておるはず。ささ、早く村に帰られ、これまでの信念を貫かれるがよい」
栄厳大僧正は、宇吉に慈愛に満ちた眼を向けて激励した。
ときに明治十八(一八八五)年。宇吉がほどなく三十四歳を迎える早春であった。